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3/22「イバダイ学」シンポ ここが聞きどころ前篇
科学史家?隠岐さや香さんの基調講演と6年半ぶり開催の理由

 322日?土曜日、365体育官网_365体育备用-【官方授权牌照】において、「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム」が開催されます。テーマはずばり、「イバダイの価値を問う」!ゲストの隠岐さや香さんの基調講演や12人の茨大教員が登壇する分科会の見どころ(聞きどころ?)を、茨城大学広報?アウトリーチ支援室のメンバーが独断と偏見でご紹介します。【前篇】

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>>「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム『イバダイの価値を問う』」詳細&申込はこちら

そもそも「イバダイ学」ってなに?

 「イバダイ学」というのは、「茨城大学(イバダイ)について学問する」というもの。茨城大学のあり方について学内?学外の枠を超えてみんなで考え続けよう、というプロジェクトです。約6年前に、茨城大学の創立70周年記念事業として立ち上がりました。

 201812月には、今回と同じ「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム」と題したイベントを開催。ゲストに、オックスフォード大学の苅谷剛彦教授をお招きし、「大学で学ぶということ―エセ(忖度する)『主体性』に絡めとられないために」という刺激的な演題のお話をしていただきました。

ibadaigaku_2.jpg >>大学の主体性とは何か―苅谷剛彦氏が「イバダイ学」で語ったこと

 その後は、有志のプロジェクトメンバーで立てた5つの「問い」ごとに分科会を実施。年の瀬にも関わらず多くの方に参加いただき、充実した議論ができました。その議論をもとに、茨城大学の「将来ビジョン」らしきものとして、「イバダイ学からの仮説」を策定。「知が本来もつダイナミズムを最大限発揮させ、創造的な地域をつくるための駆動役」という姿を描き、今後取り組むべきことを3つのフェーズに分けて示しました。

ibadaigaku_3.jpg >>イバダイ学からの仮説2019(PDFファイル)

 とはいえこれはあくまで「仮説」。大学のあり方は、常にいろんな人たちが関わりながら考え続けることが大事。ということで、その後は学部生向けの基盤科目として「みんなのイバダイ学」を立ち上げ、毎年学生たちと「イバダイ」について学び、議論を続けています。

6年半ぶりのシンポジウム

 そんな「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム」を6年半ぶりに開催することになったのはなぜか。

 ひとつのきっかけとなったのは、東京大学における授業料値上げを受けた社会の反応です。その少し前に、国の中央教育審議会の部会で、国立大学の学費値上げについての発言があり大きな話題となりましたが、タイミングをほぼ同じくして東京大学での議論が報道され、大学の学生?教職員からはさまざまな意見が噴出し、反対運動なども起きました。

 茨城大学において授業料についての議論が具体的になされているわけではありません。しかし、本来、国立大学の授業料に関しては、日本の社会として大学?高等教育にどのぐらいの費用をかけるべきなのかということについて、国としての政策ビジョンを展望しながら国民的議論がしっかりとなされるべきものではないでしょうか。そして、その議論を喚起する責任は各大学にもあります。運営費の多くを国民の税金で賄っている以上、各大学が主体的に、大学の「価値」について、それぞれのステークホルダーのみなさんと議論をしなければなりません。

 そのような思いから、6年半ぶりに「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム」を企画し、「イバダイの価値を問う」というテーマを掲げたのです。

基調講演は科学史家の隠岐さや香さん

 このシンポジウムにおいては、まずもって茨城大学の構成員が、文字どおり「自分ゴト」として大学のあり方を考え、社会に向かって問いかけることが大事です。とはいえ、その論点については、茨城大学の外からも提供してもらうことで、議論に客観性と広がりがもたらされます。そこで今回は特別ゲストとして、東京大学大学院教授で科学史家の隠岐さや香さんをお招きすることにしました。

ibadaigaku_4.jpg 基調講演は隠岐さや香さん

 隠岐さんには『文系と理系はなぜ分かれたのか』という著書があります。この新書本は大学生にもよく読まれているようです。

 大学や高等学校における「文系」と「理系」の壁は日本特有のものと言われることがあります。それが学問のタコツボ化をもたらし、ダイナミックな研究やイノベーションを阻んでいると、長年批判されてきました。そのため「文理融合」は大学にとって現在も重要な課題となっています。

 一方、隠岐さんは同書の中で、それぞれの学問の成り立ちの違いを、歴史の観点から解説しています。さらに「DISTANCE.media」というオンラインメディアに掲載されたインタビューでは、次のように述べていらっしゃいます。

「私は文系と理系は実は違わないとか、融合してしまえばいいだとかは思っていないのです。むしろ、差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい。一方は愚直に個別具体的な人間の生とその価値を徹底的に掲げ、他方は大量の人間や自然の現象から得られた情報を数量データとして処理することで知られざる現象を発見する。それぞれの分野が正反対の方向から知見を提示して、競合しあいながら集合的知性により残るべきものが残るというのをよしとしています」

「現代は『わかりあえなさ』が比較的高い解像度ですぐに可視化されてすばらしいと思います。同時に、そこに試練とチャンスの両方があるとも感じます。試練というのは、やはり『わかりあえなさ』の露骨な可視化は私たちにとって大変なストレスだということです。一方でチャンスと思うのは、そのストレスフルな現実を体験することで、ひょっとすると過去の人よりも何かを知ることができるかもしれないと感じるからです。私たちがこの事態に慣れて、以前にはない対処方法を見つける可能性は充分に残されている。時間はかかるかもしれませんが」

DISTANCE.media「科学史家?隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想:分断の可視化はチャンスでもある」

 

 茨城大学は総合大学なので、実にさまざまな分野の研究者が在籍しています。国内の大学としては中規模程度ですが、それでも分野を超えた率直な対話?議論の場はそんなに多くありません。少しずつ「融合」を志向した動きが出てきてはいますが、どちらかというと理工系のプロジェクトを組織するメンバーが外部資金獲得のために文系分野に声をかけているところがあります(同様のことを隠岐さんも指摘しています)。その状況において、「わかりあえなさ」をチャンスと捉え、差異を前提とする議論を促す隠岐さんの視点は、ある意味でとても実践的です。

 「教育」の話をめぐっても、昨年秋に東京大学の学費値上げを受けて行われたシンポジウムの場において、議論の前提として教育の質をめぐるビジョンの違いを確認しあうことが必要だという見解を、隠岐さんは示していました。地方国立大学としてどんな人を育てたいのか、その先にどんな社会を展望するのか。それを大学のリソースを通じていかに実現するのかということを考え、議論することが、私たち大学構成員にとってまずもって大事ということでしょう。

 今回の「みんなの〈イバダイ学〉シンポジウム」に際し、隠岐さんから示された演題は、「今、日本の大学が世界のためにできること―地域から発信する平和と自由のための教育?学問」。
 そう。地方に拠点を構える茨城大学からも、世界の平和と自由に貢献できるはずですし、貢献すべきなのです。果たして隠岐さんが考えるそのポイントとは何なのでしょう。とても楽しみです。

 そしてシンポジウムの第二部では、12人の茨大教員が登壇し、隠岐さんの基調講演も踏まえながら、研究、教育、地域の価値といった切り口で議論を繰り広げます。その見どころについては後篇で!

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